いわゆる「オタクカルチャー」というものがある。
マンガ、アニメ、ゲーム、コスプレ、フィギュアあたりが多分それに属してるんじゃないかな。
といっても「オタクカルチャー 」という文化は、ここ十何年くらいの間に生まれた文化だと思う。
もはやマンガもアニメもゲームもコスプレもフィギュアも、立派な文化として認められている。
日本が誇る世界に向けられるものになっているし。
でもわたしは、元々は「オタク」っていうのは、それこそ文化として認められていないものを掘り下げていく姿勢のことだと思っている。
ここでいう文化っていうのは、独自のコミュニティの中で発達しているものではない、一般的にその概要を認知されているもののつもりで言っている。
ミリオタとか、オーオタとかはそれはもう独自のコミュニティがあって、独自の文化があるけど、世間の多くの人から見たら違いもわからないわけで。
で、わたしは元々の意味での「オタク」の心構えが好きだ。
趣味というのは自分が楽しいと思いたい、満足したいという思いで始めるものと、それを介して他人とコミュニケーションを取りたいという二つの入り口があると思っている。
オタクカルチャーがカルチャーとして認められる前は、後者の入り口は塞がれていた。
それが一般的に認知されるようになったことで、間口は広がり、今ではマンガもアニメもゲームもコスプレもフィギュアも、他人とコミュニケーションを取るために始める人が増えた。
それは決して悪いことではないし、むしろいいことだと思う。
同人誌とかはわかりやすい例だと思うのだけど、やっぱり個人でやってるだけの人より、商業に乗ってる人の方が作品のクオリティ自体は高い(それと一緒に失われている「味」というのも確かにある)。
オタクカルチャーはどんどん商業化していくべきだと私は思っている。どんどん洗練されて、どんどんオシャレで面白いものができていってほしい。
ただ、そうなっていった作品たちには、かつてのオタクたちの拠り所は無くなっていくのだと思う。
かつてのオタクたちは、もっと面倒くさい人が多かったように思う。
自分の趣味の没入具合に誇りを持っているから、それ以外に目の行かない自分自身を愛していた。
だから身なりに気を遣ったりもしないし、人と喋る時は自分の喋りたいことばかり喋る。
今のオタクカルチャーが好きな人たちはそれに比べて器用だ。
身なりもコミュニケーションもしっかりしてる。
まあ、一言で言ってしまえば、オシャレになった。
かつてオタクの街だった秋葉原という街の変遷を見ると、オタクカルチャーのオシャレ化(とオタクたちの拠り所の減り方)がわかると思う。
わたしがかつてとらのあなやメロンブックスやまんだらけ、K-BOOKSに通い詰めていたころの秋葉原の空気と今の秋葉原の空気はちょっぴり違う気がする。
なんとなく、語彙に乏しくてこれ以外の言葉が出てこないのだけど、オシャレだ。
一度秋葉原に住みたいな~と思って色々と調べていた時に、こういうものを見つけた。
http://www.oakhouse.jp/lp/akihabara
秋葉原でシェアハウス。
わたしの持っていたオタク感からは想像できない。
かつてのオタクが一堂に会して住むとしても、そこには止むに止まれぬ事情があったと思う。
それは経済的な問題だったり、後ろ向きな理由であって、決して「まだ見ぬ誰かと仲良くなりたい!」みたいな理由ではなかったはずだ。
そもそもオタクにはジャンルがある。わたしの知るオタクは異ジャンルとの交流なんてできる生き物ではなかったはずだ。
それがこの部屋を見てほしい。
オークハウス秋葉原FLAT | 東京都千代田区 | オークハウス
とんでもなくオシャレだ。
こんなオシャレな空間で、オタクカルチャーが好き同士集まって語るのだろう。
なんだか最近、オタクカルチャーがある程度の基礎教養みたいになってきた気がする。
アニメやマンガの有名作品は目を通していて当然、家にはゲーム機の1台や2台あって当然、みたいな。
もちろん、文化的に素晴らしいものなので、そうやって皆で共有されて、洗練されて、良いものになっていくことは大歓迎だ。
だけど、ちょっとだけ感じる寂しさのようなものもあって。
だけど結局ただのアニメマンガゲーム好きでしかない私は、オシャレ化するオタクの波に飲まれて、オタクですらない何かになっていくんだろうなと思う。